「嫁威肉附畧版縁記」版木 慶長年間より明治まで再版された


嫁おどし肉附き面縁起

抑この面の由来を尋ぬるに、文明年中蓮如承認当山在住の砌、近在十楽村の農民与三次という者あり。
このもの昔日山の城主山治部右衛門の家臣吉田源之進なる者、日山城没落の後、十楽村に止まり百姓となり、当世の家主を与三次という。妻ありと名づく。
 
子息二人ありける与三次ならびに二子病にかかりいずれも死去す。実に恩愛愁傷かぎりなく度々の別離に遇い頼みなき世の有様思い当り、先立ちし者の菩薩のため後世を願い、未来はかかる苦しみなき浄土に参り共に楽しみ受けんものと、幸い其頃蓮如上人吉崎に御在住にて貴賤群集す。
 我も参詣し御教化聴聞せんと夫の命日に吉崎に詣り、即ち上人に御対面申し右の仕合せ段々もうしあげ御歓代をいただき、立所に信心決定して無二の信者となりき。
 しかるに其家の
姑の婆、実に類なき慳貪邪見(けんどんじゃけん)にして、子に別れ孫に離れ、かかる厳しき催促に遇いながら、未来のことはすこしも傾くこころなく嫁の毎度吉崎へ詣るを憎み、なにとぞして吉崎詣りを止めさせんと種々巧らむといえども、さすがに無二の信者なればただ姥の機嫌をとり、百姓なれば忙がわしく昼野の仕事を仕置き夜なよね吉崎へ詣る。
 
或る時姥思よう、往来のものすごき谷へ出て、鬼の形となり餘目を威嚇(おど)し、吉崎詣りを止めんと功み、祖先累代持伝えたる秘蔵の面を取り出し白髪のかみをおっさばき面をかぶり、身には白きを着し、草木茂る深みたる小谷に、今や遅し待居たり。
 かくとはしらず嫁の清、念仏申し吉崎へ急ぎける。
松吹く風も凄く小谷よりずっといずる鬼、まこと恐ろしく身の毛よだちしが、流石二にかねて聴聞に験(しる)しにや、心をしずめ驚かず「食まば食め 喰わば喰え金剛の 他力の信はよもやまじ」と口ずさみ、南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏、と称名をとなえ吉崎へ詣る。
 
姥は、嫁の帰らん内に我家にかえり面をとらんとせしに、悲しや面は顔にひっつき、とらんとすれば顔の皮をへぐごとく痛み、これわいかにせんともがけば詮方なく、今に嫁の帰らばなんと言い訳せん、とても生きて居ること叶わず、自害せんとするに手足しびれもはや動くこともならず。
 とやせん角やせんとするうちに刻限(じこく)うつりて嫁は吉崎より帰り、家に入りみれば小谷にて遇いたる鬼、これはいかにと驚けば
姥は大音あげて、ああはずかしやと泣きしづむ。
 立ち寄りいかがなされたと尋ねれば、かねがねの心中腹蔵なく語り、小谷の鬼は我なりと、ありのままに件の趣ものがたれば、嫁は泣く泣く申すよう、是非なき御事に候えども、上人の仰せには
如何なる者も弥陀を頼み念仏申せば仏になると聴聞仕り候らえば早く念仏したまえと、孝行深き心より涙と共に勧むれば、は余りの恥ずしさに生まれてより初めて嫁の勧めにより南无阿弥陀仏と一声称えれば、真に不思議や面はすぐさま落ち、手足も元の如くになり、誠に夢のさめたる如く、さしもの姥も改悔の心を起こし、我もなにとぞ吉崎に参り、御教聴聞せんと嫁に同道にて参詣し御教化をいただき、共に無二の信者となれり。
 その時、この面は蓮如上人へ差上げるに、末代のみせしめにせよとて当寺開基裕念坊に授与し給う。世に名高き肉附き面とはこれない。往来には嫁威の谷と名を残し、面は当山に止めたまえり。
 先車の覆りは後車のいましめとかや。かかるいわれを聴聞して日ごろの悪心をひるがえし、仏法にもとづき念仏相続あらるるが肝要なり

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